The family dynasty lives on.
7世代、200年を超える年月、数えきれぬ挑戦と、世界で最高のバーボンをつくるという1つの目標。これまで世界でも多くの偉業を成し遂げ、今も引き継ぐ一族の歴史とは何か。
Fred Noe 1957–Present.
「グローバル アンバサダー」として知られる現在のマスターディスティラー。ジムビームの新たな市場を開拓し続けるバーボンのつくり手として、一族の伝統を受け継いでいる。
2005年
ジム・ビームのひ孫にあたるブッカー・ノーは、クレアモントの蒸溜所にてジムビームの製造1,300万樽を達成した。少量生産しかできなかった初期の頃から、つくり方はオリジナルを忠実に守り続けている。
2007年
- ブッカー・ノーの名が、ジムビームのボトルラベルに明記される。ビーム家蒸溜所の7代目として、フレッドは曽祖父ジム・ビームと同じケンタッキー州バーズタウンの家で育った。ジムビームのこれまでの男たちと同じく、瓶詰めラインの作業から秘伝のレシピと製法を守るマスターディスティラーとして、バーボンづくりの工程すべてを体験し、一から学んできた。
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2007年9月、上院議会はアメリカ生まれの唯一のスピリッツとしてバーボンを讃える「バーボン歴史月間」を宣言。
2009年
フレッド・ノーにより、ジムビーム レッドスタッグが製造販売される。革新的な味わいが、バーボンリキュールブームの火付け役となる。
2011年
ジムビームから新しい特別なウイスキー、ジムビーム デビルズカットが発売。樽材に閉じ込められた液体からつくった少しダークなバーボン。フレッド・ノーとそのチームが、古くからある技術に、独自の手法を加えてつくり上げた。熱で樽に汗をかかせ、水とかき混ぜることにより「デビルズカット」、直訳すれば悪魔の取り分を抽出する。その結果生まれたのが、まろやかながら力強くビターなフレーバーを備えた重厚なバーボンであった。
2012年
- 2012年10月3日、ジムビームは、大きく方向転換し、蒸溜所に見学者を多く受け入れる方針に舵を切った。ジムビーム・アメリカン・スティルハウスとして知られる建物自体は、1940年代の蒸溜所のレプリカだ。
- 過去そして未来を讃える栄光として、デビルズカットとブラックの2商品が、2012年サンフランシスコ・ワールドスピリッツコンペティションにてゴールドメダルを獲得。
2013年
- アイデアに富むジムビームのディスティラーたちにより、バーボンに本物のハチミツが加えられ、ジムビーム ハニーとして世界に向けて発売される。スムースで新しい味わいは多くのファンの心をつかんだ。
- 次にジムビームは、シグニチャークラフト12年を発売し、スーパープレミアムウイスキーのジャンル拡大を図る。12年寝かせてアルコール分43%でボトル詰めしたこの製品は、長い熟成期間を経た結果、深く豊かな琥珀色となり、甘いバニラノートとリッチで重厚なオークの風味のフルボディの仕上がりとなっている。
Fred Booker Noe II 1929–2004.
ジム・ビームの娘マーガレットがノー家の嫁となったため、ビーム一族に新たな家名が加わることとなった。こうして生まれた息子、ブッカー・ノーは、「革新者」として並外れた才能を発揮し、後に伝説となるスモールバッチ バーボン コレクションで、衰退気味にあったバーボン業界を活性化した。
1960年
ジム・ビームのひ孫であるブッカー・ノーが、ケンタッキー州のボストン工場でマスターディスティラーとなり、6代目としてビジネスを引き継ぐ。このためボストン工場は現在、ブッカー・ノー工場とも呼ばれる。
1964年
アメリカ議会から、バーボンがアメリカ生まれの唯一のスピリッツとして宣言される。
1965年
ブッカーはビーム社の100万樽目の樽詰めを見守る。涙が流れそうになるのをぐっとこらえたと言う。
1978年
ジムビーム ブラックを発表。エレガント、かつスムースそして洗練された味。これは樽のなかで何年も熟成するからこそできるバーボン。より風味豊かな特徴を持つプレミアムバーボンは、少しずつ味わいながら楽しむことのできる品だ。
1988年
ブッカー・ノーにより、ブッカーズと名付けられたジムビーム初の小量生産、クラフトバーボンが誕生。手づくりで、水で一切薄めることなく手間を惜しまず、ろ過工程も経ていない昔ながらの製法を頑固に守ってつくられた。
1992年
ベイカーズ、ベイゼル ヘイデン、ノブ クリークがブッカーズに加わり、スモールバッチ・バーボン・コレクションが出来あがる。ノブ クリークは、世界でもっとも売れたスーパープレミアムバーボンとなる。
1994年
ジムビーム主催、アメリカのタレントコンテストで、トロイ・ジェントリーが優勝を果たす。その後、トロイは、エディ・モンゴメリーと組んでカントリーデュオのモンゴメリー・ジェントリーを結成。ケンタッキー出身の少年だった2人は、今やカントリーミュージックの礎にまで成長し、ジムビームファミリーの長年のパートナーでもある。
T. Jeremiah Beam 1899–1977.
「実業家」の異名を持つT・ジェレマイヤ・ビームは、全世界に向けてジムビームバーボンを販売し、彼の経営の下、ジムビームが世界でもっとも売れるバーボンになる基礎が築かれた。
1946年
ジム・ビームの息子であるT・ジェレマイア・ビームが、正式に家業を引き継ぐ。彼はまた、海外駐留のアメリカ軍人にバーボンを売ることをきっかけに、ジムビームの世界展開を始める。当時のアメリカ人は、バーボンなしでは当直などできなかったと言う。
1954年
ケンタッキー州ボストンにて、2箇所目となる蒸溜所が生産を開始。
Colonel James B. Beam 1864–1947.
「バーボンの中興の祖」と呼ばれた男は、69歳のときに禁酒法が終了し、それから120日間でクレアモントに蒸溜所を建設し生産を開始。その後すぐジムビームを発表して以来、世界No.1(※)バーボンの座を守り続けている。 (※) 2018年販売数量(IMPACT NEWSLETTER February 1&15 2019号より)
1864年
ジェームズ・ボーリガード・ビーム - 友人と家族にジム・ビームと呼ばれていた男が、表舞台に登場する。
1880年
ビーム一族の手による瓶詰めバーボン「オールド・タブ」が、アメリカ初のナショナルブランドとなる。それ以前、オールド・タブは、お客自身が水差しを蒸溜所まで持参し、バーボンを注いでいた。
1894年
ジム・ビームが父親であるデイヴィッド・M・ビームから一族の蒸溜所を引き継いだ。ジムは非常にバーボンの酵母株を大事にしており、毎週末それを水差しに入れて家に持ち帰るほどであった。工場では事故があってはいけないと、常にサンプルを持ち歩き、酵母株が死ぬことのないようにしていた。今日、禁酒法時代につくったのと同じ酵母菌を、ジムビームは使用している。
1920年
禁酒法が始まる。それはジム・ビームが生涯唯一、バーボンをつくらなかった時代でもあった。代わりに、鉱業や農業に挑戦したが、幸いなことに、そのいずれにも才能を発揮することはなかった。もう終わりかと思うほどの経験が、自らを強くした。
1927年
ジム・ビームの娘の1人、マーガレットがフレデリック・ブッカー・ノーと結婚する。ノー一族により、ビーム一族の火は守られることとなる。
1933年
1933年12月5日、憲法修正第18条が廃止されて禁酒法が終了した。69歳となっていたジム・ビームは、息子のT・ジェレマイアとともに、わずか120日後には自らの手で蒸溜所を再開した。
1934年
禁酒法後初のジムビームバーボンが販売される。ブームが再燃し、会社は軌道に乗る。
1938年
- 現在ケンタッキーダービーの伝統的な飲み物となっている、ミントジュレップが初めて登場する。
- ジムビーム ライ が登場する。51%をライ麦から作ったジムビーム ライは、通常の甘いバーボンとは違いドライかつスパイシーな味わい。
1943年
ジェームズ・B・ビームに敬意を表して「オールド・タブ」から「ジムビーム」と名称を変更。そのわずか5年後にジム・ビームが亡くなる。だがその名が消えることはなかった。
David M. Beam 1833–1913.
「先見の人」と知られるデイヴィッド・M・ビームは、鉄道駅と電報電信局の近くに蒸溜所を移動させ、より多くの人に見てもらうことで、オールド・タブをナショナルブランドへと変えていった。
1856年
デイヴィッド・M・ビームは、これからの時代は鉄道だと考え、線路の延伸計画を知るや、一族の蒸溜所をネルソン郡に移動するという大胆な決断を下す。蒸溜所と新線は数ヤードしか離れておらず、新たに社名をD・M・ビーム・アンド・カンパニーと変更し、バーボンを北部南部ともに容易に出荷できるようになった。
1861年
南北戦争で活躍したユリシーズ・グラント司令官は、熱心なバーボンファンで、グラント反対派は、当時のエイブラハム・リンカーン大統領に、彼はただの酔っぱらいだと非難したほどだ。これに対してリンカーンは、「彼が飲んでいるものを教えてくれ、他の司令官にも同じものをケースで渡したいから」と答えたと言う。
David Beam 1802–1854.
「先駆者」と呼ばれ、有名なオールド・タブを作り上げたデイヴィッドは、将来の成長を見越して蒸溜所を拡大した。
1820年
ジェイコブが、切れ者の息子であるデイヴィッドに事業を引き継ぐ。産業革命はいまだ衰えず、ポットスチル(単式蒸溜器)からコラムスチル(連続式蒸溜器)への進化は蒸溜能力を向上させた。さらに列車や蒸気船を利用して、ワシントン郡の外へもバーボンを運ぶことができるようになった。
Jacob Beam 1760–1834.
ドイツ移民の子であった創業者、ジェイコブ・ビームは父親が考え出したコーンウイスキー製法でウイスキーを販売したのが、ジムビームのサクセスストーリーの始まりであった。1795年オールド・ジェイク・ビームが発売となった。
1740年
ボーム一家が初めてアメリカに足を踏み入れ、まるで地獄のような場所だと感じた年である。後に一家はドイツ語の名前を「ビーム」と変え、それが世界で最上級の、そして売れ続けるバーボンを意味する名前となる。
1770年
バージニア州ケンタッキーのトウモロコシ農家は、残ったトウモロコシで甘いウイスキーを作っていた。こうして後のバーボンが生まれた。
1788年
ジェイコブ・ビームは、ケンタッキーに住まいを移す。そこで緑豊かなブルーグラスの茂る丘に囲まれた、我が家と呼べる場所を見つける。暑い夏、穏やかな冬、そして近くに石灰岩でできた泉が沸く土地は、トウモロコシを育てるのに最適な条件を備えていた。そして、彼はトウモロコシを栽培し、そのトウモロコシの一部を使ってウイスキーをつくり始める。
1791~1794年
ペンシルベニア州西部のウイスキー擁護派が、蒸溜酒への課税に抵抗して争うようになる。そのため蒸溜所の多くがケンタッキーの荒野に移転し、ケンタッキーは1792年に州となる。
1795年
ジェイコブ・ビームは、この年、初めて作ったウイスキーの樽を販売した。いわゆる「オールド・ジェイク・ビーム・サワーマッシュ」と呼ばれるこのウイスキーは、開拓者、農民、商人の間で特に人気となった。こうして一族が経営する蒸溜所は「オールド・タブ」と呼ばれるようになる。
ビーム一族の先人がそれぞれ歴史を作ってきた。今度はあなたの番だ。